七福神のルートマップは、こちらです(深川七福神の公式サイトより)
ルート順は、こちらです。
森下駅(都営大江戸線・新宿線)
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深川神明宮 【寿老神】
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芭蕉記念館、史跡展望庭園
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A:旧新大橋碑【江戸名所百景(大はしあたけの夕立)】
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B:萬年橋【江戸名所百景(深川万年橋)】
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深川稲荷神社 【布袋尊】
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清住庭園
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霊厳寺【松平定信の墓(国史跡)】
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龍光院 【毘沙門天】
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圓珠院 【大黒天】
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冬木弁天堂 【弁財天】
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心行寺 【福禄寿】
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C:三十三間堂跡【江戸名所百景(深川三十三間堂)】
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富岡八幡宮 【恵比須神】、横綱力士碑
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D:永代寺【江戸名所百景(深川八まん山ひらき)】
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深川不動尊
江戸時代の絵地図でも見てみましょう。
国立国会図書館より転載 |
絵地図をみて印象的なのは、富岡八幡宮の周辺から右側の木場まで、堀で囲まれて水運の街だったことがよく分かります。
江戸は至る所に船を通し、水運の発達した街だったといわれますが、絵地図でも縦横に堀が走っていて、このままの堀が残っていればイタリアのベネチアとまでは言わないまでも、雰囲気ある街並みになっただろうなぁと想像します。
関東大震災や空襲で破壊されたところから復興していく中で、開発を進めていかなければならなかったので仕方ないんでしょうが、ちょっと残念です。
とりあえず、今回は深川七福神めぐりに合わせて見ていった江戸名所百景のポイントを挙げてみます。
A:江戸名所百景(大はしあたけの夕立)
かつては萬年橋の近くに『新大橋』が、かかっていました。現在の新大橋は、森下駅からの新大橋通りにつながっていて、絵地図の場所からは北に移動しています。
両国橋が旧名『大橋』であったことから、『新大橋』と名付けられたものです。
『新大橋』があったと思われる場所には、『旧新大橋跡』の碑が立っていますが、道路脇にポツンと置かれているだけなので、普通にあるいていると見落としてしまいそうなくらいです。
B:江戸名所百景(深川万年橋)
絵地図にも万年橋とかかれている深川万年橋を描いたものですが、昔はここから富士山が見えたのでしょうね。
葛飾北斎も『深川万年橋下』で、万年橋と富士山を描いています。
歌川広重の『万年橋』では、欄干からの切り取った構図で亀が印象的です。
『鶴は千年、亀は万年』ということで、万年にちなんだ亀を描いているのですが、コジャレた感じがしますね(笑
江戸時代では放生会という生き物を買って、放してあげるというイベントがあったそうですが、富岡八幡宮でも行われていたようです。
昔の人は、『万年橋』にかけた亀と富岡八幡宮の放生会での亀のつながりにピンときたのでしょうが、分かる人が見れば分かるポイントを所々に取り込むセンスに広重の商売上手を感じます(笑
こちらが、今の『萬年橋』。
鉄骨のアーチが、印象的な橋です。
左手には小名木川の水門もありますし、松尾芭蕉にちなんだ史跡展望庭園や松尾芭蕉記念館もあり、見どころあるポイントです。
C:江戸名所百景(深川三十三間堂)
京都の三十三間堂と同じく通し矢が行われていた場所です。
絵地図にも三十三間堂とありますが、当初は浅草の方にあったものが焼失し、富岡八幡宮の方へ移転してきたものです。
絵地図だと三十三間堂のすぐ前は、堀になっています。広重の浮世絵でも堀が描かれていますし、今の道路前に堀があったのかと想像すると、景観の変化に歴史を感じます。
D:江戸名所百景(深川八まん山ひらき)
絵地図では富岡八幡宮の敷地内に、『永代寺』とかかれています。
八幡宮では管理のための別当寺があったそうで、富岡八幡宮では『永代寺』がその役割を果たしていました。
この『深川八まん山ひらき』は、『永代寺』の庭を描いたもので、今の姿からは想像もできない立派な庭があったようです。
池に人造の富士山もあったようなので、深川八幡宮の土地は、よほど良く整備されていたんだなということと、それだけ信者も多く信仰されていたのかと想像します。
こちらが今の『永代寺』ですが、参道の奥には『深川不動尊』があります。
絵地図は江戸の後期頃のものだと思いますが、『深川不動尊』は名前も出てきていません。
深川不動尊のサイトによると、元禄16年(1703年)に永代寺で成田山の出開帳が行われ、明治14年(1881年)に今の場所にお堂ができたようです。
深川不動尊ができるまでに、富岡八幡宮エリアの土地がどう処理されていったのか?とか、経緯を考えるとなかなか面白いです。
次の『深川七福神めぐり@散策②』で、実際の散策の記録を挙げていきます。
<参考図書>
広重の大江戸名所百景散歩
もち歩き 江戸東京散歩(切絵図・現代図で歩く)